昭和50年07月18日 月次祭
夏の信行も愈々半分は終わりました。毎日それこそこのお広前が、割れんばかりの勢いで、信行に皆さんが取り組んでおられます。信心に修行はつきものその修行におかげが頂ける。その修行によっておかげが受けられると言う事は、修行する事によって力が頂ける。おかげは神様は何時も同じに下さってあるんです。けれども力がないから頂けないのです。ですから修行によって、神様を信ずる力と言った様なものでしょうか。又は辛抱力とでも申しましょうか。
とにかく色々な力が頂ける。ですから神様のおかげを受け止める事が出来るというのです。こらもう愈々後十何日でございますから、まだ参画しておられない方は、一日でも二日でもご修行の、ちょうど三十分間ではある、短い信行でございますから、参画されますと本当に有難い。始めて参ってきた方達でも、あの雰囲気の中に浸っただけで、とにかく何か知らんけれども、いわゆる宗教的感動とでも申しましょうか。どこから湧いてくるか分からん感動を受けると言うておられます。皆さん感動が有難いです。
今朝から朝の御理解に、今朝から私がお夢を頂いたんです。そのお夢というのが、私がうどん屋さんになっておる。それがうどんが丁度切れとるから、そばをお客さんに食べて頂きよる。ところが中のお客さんに一人、私好みのお客さんが来とる。そしてその方はまだ若いから、そばいっぱいじゃちった、そのお腹いっぱいになるまいと思うて、その人だけに少し、盛りを良うしてあげておると言う様なお夢であった。
またその次にはこれもやっぱり、私好みの人が私のほうへ来てるんです。帰らんならんと言うから、ほんならもうバスが来るだろうと言ったら、その何かバスが来ました。所がバスが満員だったですから、まぁとにかくま一時ゆっくりせろと言う事じゃからと言う口のうちに、もう後から来ました。それはもう空で参りました。そしたら私がそれを手を上げんで止めずに、そしてその人を引き止めておると言う様なお夢であった。
本当に私はそれを頂いてから、思うたんですけれども。これは人間が人を愛すると言う事は決して悪い事ではない。けれどもそれが偏愛になる所に、矢張り神様の機感に叶わない。このお客さんにはおそばを盛りを余計してやって、片一方の人にはしてやらんと言った様な事が、神の機感に叶わぬ。私は今日はそのお夢を頂いてから、本当に神様に喜んで頂けれるような信心。喜んで頂けれる修行と。先ず自分の心を正さなければいけない。ただガムシャラに修行をしただけではいけない。
それは親が子を思う切実な心。親が子を思う心を親切と思うこと切である。しんと言うのは親、その親という字を分解してみると、木の上に立って見ると書いてある。子供がどこにか行っておる帰ってこない。遅いまぁだじゃろかまぁだじゃろかと思うて、何回も外へ出て見るけど、まだ帰ってこないそれこそ高い所があるなら、高い所に上がってそれこそ木があるなら、木の上にでも登って見て、向こうのほうから帰って来てどんおらんだろうかと手をかざしてみる。それが親の心だというのです。
それを親という字は、そういう意味があると言う事でございます。だから親が子を思う思いというものは、これはまぁ切実なものです。所がそういう親が子を思う思いという、それは親切ではありましても、それは神様の機感には叶わんと言うのです。神様の心に叶う心というのは、親を子が思う子がまた親を思うと言う様な、そういう思いがです。赤の他人の誰彼の上にも、掛けられるような心が、神の機感にかなう心だと言われておる。ですから神の機感に叶わぬ心というものを、私共が謹ませて頂く。
私の今椛目に行っております娘が、まぁだ三つぐらい二つぐらいでしょうか。ヨチヨチ歩きぐらいの時分。丁度妹の子供も一様なのがおりました。まぁ双子のようにしておりました。ある時私が御本部から帰って参りましたら、二人の子供が一緒に「とおちゃま」と言ってから、そのやってきたんです。二人一緒にやってきたんで、一緒に抱くわけにいけんのです。もうとっさの事です。
矢張り自分の子供のほうへ手がいこうと致します。そういう時にです。私はいわゆる妹の子を抱きました。まぁ一事が万事に私は、そういう生き方を致します。いわば精進です努力です。事実矢張り自分の娘のほうが可愛い。けれどもだから可愛いのですから、形の上だけでも、妹の子を可愛いがらなければいけない。そこにこうバランスが取れてくるという訳であります。親が子の事を思う。もうそれこそ切なるものでございます。けれどもそれは、誰しもが遣う心であります。
信心と言うのはそういう心がです。赤の他人の誰彼にでも使える様になると言う事。いわば神心であります。そういう神心をフルに使わせて頂ける様になる。神の機感に叶うというのは、そういう心の使えれる人だと思います。そういう精進をさせて頂きながら、信行であります。いわゆる信行というのは、只今申しましたのは、信心の信に行であります。今一時の御祈念の夏季信行は、それであります。夏の一番暑い盛りを選ってここへ参りますと、こうして冷房が効いておりますから。
私は思いますのに昔の方達の場合は、やっぱり気骨があった。椛目時代からの信者さん方は皆んなこの上着を着てきます。夏の盛りでもけども最近の方達は、この開襟シャツやら、ワイシャツだけで参ります。それでいけないという訳ではないですけれども、矢張り修行ですから。矢張りちょっと自分が心を使わせて頂く事によって、修行が生き生きとしてまいります。そういう修行又は信行をさせて頂きながら、愈々神様の機感に叶う、神様のお心に叶う心の状態を作っていく。信心とはそう言う事です。
神様の心に叶う心の状態を作っていくと言う事であります。ですから教えを頂かなければ分かりません。親が子を思う思い親が子を可愛がるのは、もう当たり前のように思うております。けれどもそれではねほんなら、あれは子供ば大変可愛がりよるから、おかげをやろうとは仰らぬ。そらもう当たり前。その自分の子供が可愛い。その可愛いその思いで、赤の他人の誰彼の事をです祈らせて貰うたり、可愛がらせて頂くと言う事になります時に、それは本当の神愛と言う事になってくるのです。神愛と言う事は神の愛。
その私共の心のなかにも、神の愛というものが育ってくる。そこに神様と一体同じ様なものが育っていく。信心はここだけであります。信心とは結局わが心が神に向こうていくと仰るのですから。人間じゃきこのくらいの事は当たり前。成程当たり前ですけれども、当たり前では、矢張り当たり前のおかげですから、今言う様にそら自分の子供の方が可愛いけれども矢張り抱く時には他の子供。四神様の時代にそういうお話がありますですね。自分の子供と他人の子供が一緒にこけた。
そういう時には四神様、どちらを先に起こすのが本当でしょうかというてお伺いをした。そしたら他人の子を起こす気になれば、お前の子は神が起こしてやると仰った。実際は、二人自分の子供と人の子供が一緒にこけたなら、先ず自分の子供を起こすこれが人情です。けれども他人の子を起こすというのは心情です。というてほんならすっきりと、自分の心の中にです。他人の子を先に起こさせて頂けるほどしの神心は、育ってはいないに致しましても、他人の子供を先に起こす心。
気にになればお前の子は、神が起こしてやると仰る所が素晴らしいです。そこからですいわゆる感動が頂けます。その感動がおかげを呼ぶのです。今日は午後の奉仕をしております時に、東京の高松和子さんから、分厚い手紙が参りました現金封筒で。東京のキムラヤに勤めております。もうそれこそ日本一のパン屋さんです。それが今度賞与の明細給料の明細に、初めて社員として取り扱いを頂いた。その社員ナンバーが何と0013という番号がついている。
もうそれこそ大変な感動、私もそこを読ませて頂く時に感動した。手紙に書いてあります。二千人近くからの従業員があるそうです、日本中にありますからね、キムラヤというのは。その二千人からもあるほどしの従業員の中の、その給料ナンバーが十三であるということがです。わざわざ私のためにその十三という番号を取っておって下さったと思うたら、感動せずにはおられませんという手紙でした。素晴らしいですよね。だから私共が出来なくってもです。
例えば本当の神心ではない、心情ではないけれどもそうあらせて頂こうと精進する努力する。自分の子供と他人の子供が一緒にこけた時にです。教えを頂いておかなければならない。どちらを先に起こすとが、本当でしょうかと。それは他人の子供を起こすのが本当じゃと神様が。習うとかんと分からん。だからお前が他人の子供を起こす気になれば、お前の子供は神が起こしてやるというそこにです。神様の不可思議な働きを、そこに見感じる時に起きてくるのが感動である。
その感動が湧いてくる時には、もうこれは駆け引き無しにです、本当の心情が使えるものです。本当の神心が使えるものです。そのようにして自分の心の中のいうならば、神様の心と一つになる信心の稽古というのは、そう言う事だと私は思うです。それはまぁたとえば実感です。そらやはり自分のことばっかりを、御祈念でも願おういや願う事と言うたら自分の事ばかり。自分の身内の事ばかり。自分家の子供のこつばかり。それが願いの実感でしょうね大体。
だけれどもねそれを他人そう実感はなくっても、ほんなら赤の他人の誰彼の事、関係のある方達の事やらを、一生懸命祈らせて頂いて、自分の事の様には実感はない。けれどもね人の事を祈りよれば、お前の事は神様が言うなら、お前の子供は起こしてやるという働きがあるのです。この辺が私は信心の稽古だと思う。そうしていくうちに段々人の事がわが事のように、実感を込めて祈れるようになる。心情を持って祈れれるようになってくる。誰しも矢張り人間愛だけしか持たんのが普通です。
その人間愛がです。それはただ子供が可愛い。これは人間愛です。自分の好きな人だけには盛りを余計してやる。自分の好きな人は止めたい。嫌いな人はいつまっでん帰らん。あら帰らんけん箒(ほうき)なっとん立てとけち言うちから裏に箒立てとる。あら箒ば反対にこう立てとくと、早う帰るぎなもんね。尻の重かつがいつまっでん帰らん時にはね、箒ば反対裏に立てとく。まじないげな。というて箒でん立ててからでも、早う帰そごたるとがおると思うと、帰るというとば引き止めようごたるともある。
これはどこまでも人間愛であります。親が子を思うこれは切実なものですから、大変素晴らしい。幾ら素晴らしいというても、子や孫が可愛いというのはどこまでも、矢張り人間愛であります。だから人間愛ではおかげは受けられん。自分の子や自分の孫が可愛い。そういう思いを赤の他人の誰彼に使えれるようになる時に、それが本当の神愛であります。始めから中々出来ませんけれども。
さぁ自分の子供と他人の子供がこけた時に、四神様は自分の子よりも他人の子供を、先に起こす気になれば、お前の子供は神が起こしてやると仰るのですから。他人の子供を先に起こさせて頂けれる稽古をするのであります。所が神様が自分の子は起こして下さってあった。そこに感動が湧くそして成程と合点がいく。自分の事よりも人の事を先に祈らせて頂く様になりゃ、おかげは頂いておるのは自分自身であるというようにです。決してそれはだから難しい事では無いのです。
もう初めから人間愛を捨てて、神愛になれというのなら難しか。人間はどこまでも矢張り人間愛なのです。けれどもね好きな人が帰ると言う。それを「まぁ今夜泊まっていかんの」と言わずに、心の中で信行をさせて頂くと言う位な修行はしなければならない。自分の嫌いなつが来とる。そげん時には例えば心じゃ早う帰ったが良かと思うても「今夜あんた、一晩でよかじゃんの、泊まっていかんの」と言う事によってバランスが取れる。それはいかにも不自然のようですけれども、矢張り稽古であります。
そうしておるうちにそん好かれんとが、やっぱり喜ぶ喜ぶと喜びを受ければまた、好かんとでも大事にせにゃおられなく、段々なって来る様なものが生まれてくる。もう好かんとは好かん、と言う様な風なね。摘み切ったような言い方をする人がありますけれども、それでは信心の稽古になりません。人間愛から神愛に段々進んで行く所のおかげを頂かなきゃならない。神愛にならなければおかげが頂かれんというなら、難しいけれども。神愛になろうと努力すると言う事だけでおかげになるのです。
神様がそこにですそれこそ、二千人近くもおる社員の中に、ただその給料のナンバーが、0013と言った様な番号を下さってあったと言う事がです。和子さんをして感動させずには置かなかった訳です。人の子を先に起こさせて頂いたら、自分の子は神様が起こして下さっておったのです。そこに感動がある。だからそういう稽古をね、させて頂かにゃいけません。愈々信行も後十何日かで終わりますが、出来ない事が、不思議に修行させて頂いておる時には出来るものです。
そしてそれがみやすう出来る様に成った時に、信心の成長というのがあります。ただ神様にお願いをすると言う事だけが、信心のように思うてそれから一歩も精進しない、努力しないと言う様な事では、愈々つまらない信心に終わってしまいます。人間愛から神愛。いうならば御道の信心の、真髄というから。キリスト教が愛を説き、仏教が慈悲を説くなら、金光教は神心を説くと言われております。
その神心が一遍に出来るとは思われません。神の愛神様が思われるであろうと言う様な思いが思えれる様に成る為には、矢張りそれまでの稽古がある。少しは不自然ですけれども、それこそ他人の子供を先に起こさせていただくような稽古をさせて頂くうちにです。そうする事が有難い事になり、そうする事が自然に出来るようになるのです。信心の心というのは私共の心が、稽古によってほったらかしとけば、それこそ人間の面しとるだけで中身はそれこそ、鬼か夜叉かと言う様な心にもなりかねないのが人間の心。
それをちょっと心掛けさせて頂いて、心の中にそれこそ地蔵様か観音様かと言う様な心が頂けれるようになるのも、同じ心の中にあるのです。ですから今日は私は精進というかね、信心信行というか、今は自分にそういう心はないのだ、人の子を起こしてやるような親切な心はないのだけれども、御教えには人の子を先の起こしてやるような心になればと仰るからそういう努力をすると言う事です。
そういう努力をする所から、自分の子供は神様が起こして下さるという働きになって、そしてそういう人の事が祈れ、人の事を先にさせて頂けれるようなおかげが、スムーズに出て来る様になった時に、私の心は愈々神様の心に近付いていきよる時と言う事になる。それが楽しいそれが有難いと言う所に、信心のいわば妙があると思います。どうぞ一つしっかり信行に力を入れて、明日はここに北九州ですかね。主だった幹部のご信者さん方が、百二十名ここに集まられる事になっております。一晩泊まりです。
それでまぁ何か良いお話がある訳でございましょう。ですから矢張り泊りがけで来なくっても良いから、お話を聞きだけぐらいには、来らせて頂いたら有難いと思うです。話を聞かなければ分からない。どうするとが本当かと言う事をです、話を聞いておくとそれは他人の子供を先に起こすのが本当だと言う様な事が分かってくる。そこでそれを実行する。そこから自分の子は、神様が起こして下さるという体験が生まれてくるのです。
どうぞ。